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むらかみピアノ音楽教室

認定済み
むらかみピアノ音楽教室
カテゴリー
教室の紹介

名鉄各務原線
羽場駅から徒歩7分
広い駐車場もございます🅿️
小さな成功体験を積み重ね、生きる力を伸ばしていきます。ピアノを学ぶ事で時間の使い方が上手くなり自分から進んで勉強やスポーツにも取り組めるようになります。思いやりの気持ちが育ったり何より集中力がつきます。
3人の子育てをしてきたので子育ての相談にものります。私の子育ての時代とは違う事も多いのですが今に合った情報交換もしているので安心して何でも相談ください。

レッスン詳細
🔴ピアノコース
 🌸幼児コース
   月3回30分 7000円
 🌸小学生・中学生コース
   月3回30分 8000円
 🌸高校生〜
   月3回30分 10000円
 🌸育脳ピアノシニアコース
   月3回30分 10000円
 🌸認知症予防コース(簡単な体操あり)
   月2回45分 10000円


🟠リトミック(プレピアノ)コース
 🌼4ヶ月〜3歳
    月3回30分 6000円

🟡音楽療法(療育)コース
 💐発達障がい・聾・視覚障がい・病弱等
  月2回 45分  9000円
     (カウンセリング込み)

🟢ライアーコース
    月2回30分 6000円
   (楽器レンタルは2000円〜)




講師
村上知枝美
509-0135
教室所在地
岐阜県各務原市鵜沼羽場町1-205-6
先生からのメッセージ
体験レッスンを行なっています。公式ラインからのお申し込みでお得なクーポンを差し上げます。
先生のプロフィール
各務原市 むらかみピアノ教室 ホーム各務原市 むらかみピアノ教室 ホームページ https://murakamipiano927.jimdofree.com/ ブログ https://ameblo.jp/flugel-tensi/ 村上 知枝美プロフィール 幼少~小学時代 親戚の結婚式で「ちゅうりっぷ」を歌い歌手をめざしました。 親戚なので当たり前ですが褒められうれしく、人前で歌う快感を知りました。 音楽が好きなこどもでした。 小学生から中学 ピアノを1年から始めました。 初めはピアノが無くて、オルガンで練習していました。 河合のプレハブの教室が小学校の横にあり通いました。 先生のイメージはとにかく「オシャレ」でした。 メリーのキャンディーを持ってらして、「ピアノの先生はこんなキラキラのキャンディーをおやつに食べるんだ」と思ったことがとても印象的で記憶にあります。 ピアノの先生は私にとってあこがれの存在でした。 この頃は年上のいとこがバイエルも先に進むのが嫌で仕方ありませんでした。 鼓笛隊でトランペットをしていました。 ピアノはこの頃 ほとんどサボってました。 吹奏楽でサックスしてました。 とにかく、楽しかった3年でした。 3年の文化祭で、1000人くらいの全校生徒の前で「マイウェイ」を英語で歌いました。 なぜかフランクシナトラが好きでした。 友人が伴奏してくれました。 ピアノより、合唱のアレンジを担当させてもらったりしました。 とにかくこの頃ピアノは嫌いでした。 私は一人っ子でした。 いつもいとこと比べられ?自分で比べて、今思うと自信がなくひねくれていたのです。 いとこに同じ音大のヴァイオリンやってる子がいたり、東大、慶応レベルがいたり、ちょっと歌が歌えても、ピアノが出来ても「当たり前」「普通」の評価しかしてもらえなかったのが嫌でした。 高校 それでもやはり音大に行きたいと高校に入りピアノも復帰し、声楽、ソルフェージュを始めました。 高校では合唱の伴奏していました。 高校三年の時が生涯で一番ピアノの練習しました。 いじめや家庭問題はありませんでした。 国立大学落ちたので一浪しました。 名古屋音楽大学入学 大学に入ってからは周りがみんなお嬢様で、友達とは少し距離を置いていました。 それなりに旅行に行ったり楽しみました。 うちの父は普通のサラリーマン、みんな会社経営、銀行頭取、不動産、株持っているのが当たり前でした。 ヤマハのポプコン、写譜のアルバイトが楽しくてヤマハに入り浸り、クリスタルキングの田中さんと飲みました。 タレント事務所に入り、テレビ、モデル、歌のユニットで活動していたこともあります。 未だに選挙のウグイスはやってます。 単にちやほやしてほしかったのだと思います。 趣味はマラソン 今も続けています。 ピアノは試験に合格すれば良しという感覚でした。 移調奏なんて適当でしたね。 社会人   結婚するまでの二年半、マラソンとトライアスロンにはまり、音楽してません。 友人の結婚式で弾き語りしたり、頼まれるとピアノ弾くこともありました。 名古屋音楽大学卒業して、同系の同朋大学に就職しました。 浄土真宗の大学なのでお寺の友人多いです。 学部時代も音大なのでお経が楽譜でした。 40歳過ぎるまで自分がいかに恵まれて生きてきたか知らないほどいじめや死にたいほどの苦難にあったことはなかったですね。 周りもお嬢様、いとこもみんな秀才。 音楽ができること、音大に行けることのありがたみも感じませんでした。 アクセサリー感覚でたね。 ピアノが弾けて、歌えて、地味にタレントもできて・・当たりまえだと思っていました。 結婚  「ああ、結婚したいな」と思い相手はたくさんいましたが、今の旦那と結婚。 26歳でした。 私の音楽の仕事には協力的です。 結婚前後も苦労なかったです。 子育て~試練の始まり~ 27歳で長女を出産。 そして29歳で長男出産を目前に控えたある日、神様はそれまで、なんの苦労もせず生きてきた私に大きな「試練」を与えたのでした。 長女の耳が聞こえていないことが分かったのです。 1歳5か月まで発達などの異常もなく育っていましたし、私がピアノを弾くと隣で嬉しそうに、鍵盤を触っていました。 聞こえていないなどと疑いもしませんでした。 しかし、落ち込む暇もなく、訓練が始まり、補聴器を作り、障害者手帳を作りました。 障害者手帳には長女の写真が貼られているのですが、辛くてその無邪気に笑う写真を見ることができない私でした。 長女の検査の2か月後、千歳で長男を出産。 当時主人は自衛官で「政府専用機」に搭乗していました。 そのため、結婚後すぐから、北海道の千歳市に住んでいました。 雪の多い、北海道で乳飲み子を抱えて訓練に札幌に通うなどできません。 仕方なく、主人を単身千歳に残し、私は実家のある愛知県に戻ることになります。 そして愛知で聾学校と愛知保健センターに通うことになります。 そして、兄弟なので長男の耳の検査もすることになりました。 結果は長女と同じで耳が聞こえていませんでした。 実はそのころの記憶があまり無いのです。 もう、ただ2人も耳の聞こえない子を産んでしまった。 情けなくて、みじめで仕方ありませんでした。 毎日、毎日二人の子どもを道ずれに死ぬことばかり考えていました。 ある日、寝ている長男の首に手をかけようとすると、起きて泣き出してしまったのです。 私は泣き声で我に返りました。 しかし、そんな辛い夜でも朝は来ます。 そして朝になれば訓練に通わなくてはなりません。 忙しさが私を死なせまいと支えてくれていました。 二人目も障がい児と分かり主人も北海道から愛知に転属となりました。 私の両親の助けを得て、毎日必死で訓練と子育てをする日々でした。 療育 訓練に通いだした私は、不思議と聞こえるお子さんを羨ましく思うことだけは一切ありませんでした。 でも、同じ障がいを持つ子どもと、どうしても比べてしまうのでした。 お勉強のできる聾の子どもさんが羨ましくて仕方ありませんでした。 長女は聞こえないと分かったころからトイレトレーニングを始めました 言葉を覚える訓練をしてくれない長女には、虐待まがいのスパルタで、親子共々精神的に追い詰められていきました。 出来の良くない長女が不甲斐なくて、お勉強のできる子が羨ましくて仕方ありませんでした。 私まで出来の悪い母親のレッテルを貼られてしまった気になっていました。 こんなに私が一生懸命やってやってるのにどうしてできないのかと? きっと鬼のような顔つきだったでしょう。 次女出産 そんなころでした。 私は、次女を妊娠したのです。 まだ長女は2歳、長男は1歳にもなっていません。 主人は私に堕せと言ってきました。 もし、また聞こえない子どもが生まれたら? もっと重い障がいの子が生まれたらどうするのだと・・・ 私は一人っ子でしたので子どもはたくさんほしいと結婚前から考えていました。 「どんな子が生まれようと私は産む」泣きながら主人を説得したのでした。 産むと決意したものの毎日の訓練、生活で心が悲鳴を上げていました。 被害妄想、被害者意識の塊になった私は、お腹の大きな私を見てみんなが笑っているように思えました。 「また、聞こえない子ども産めばいいのに」「二人も障がい児いるのに3人目をよく産むわね」 と言われていると思い込んで、さらに私は鬼のような顔つきになっていきました。 将来二人が困らないように、できる限りのことをしてやりたい、あれもこれも教えなくては・・・ 子どもたちはそんな鬼のようなお母さんのいう事などきく訳がありません。 どんどん、大切なものを見失い一人空回りする私でした。 次女が無事に生まれほっとしたころでした。 ある本との再会 ふと、ある日本棚のある本を手に取りました。 私の卒業した名古屋音楽大学は同朋大学と同じ系列で浄土真宗の学校でした。 音大を卒業してから私は同じ敷地にある同朋大学の研究室に就職しました。 その同朋大学で知り合った友人にもらった本でした。 タイトルは「子どもたちよありがとう」 著者は浄土真宗のお寺に嫁ぎ、3人の子どもに恵まれますが、長男は問題児でいつもいつも檀家さんに謝りに行ったそうです。 そして妹が生まれるのですが重度の脳性まひで生まれてくるのです。 どれほど子育てが大変だったことでしょう。 しかもその著者である彼女はがんに侵され、42歳の若さで3人の子どもを残し亡くなってしますのです。 私は本を読みながら大声で泣いていました。 それまでに我慢しため込んでいた悲しみがあふれてきたのです。 ふと、思ったのです。 全然言葉の勉強をしてくれない長女につらく当たり、長女が出来ないのは私がダメな母親なんだと思い込み、子どもの気持ちを考えてあげる余裕など全くなかったことに気づかされたのです。 3人の子どもを残し亡くなった彼女はどれほどさみしく悲しかったことでしょう。 それを考えたとき彼女の声が聞こえたようなきがしたのです。 優しく微笑む彼女は私にこう言うのです。 「子どもの傍で生きているだけでいいじゃない、よその子と比べるのも、押し付けるのもやめて、ただ、あなたは笑っていればいいんじゃない?」目が覚めた私は自分の生き方を探し始めます。 各務原市に引っ越しピアノ教室(フリューゲル)を開く 思えば聞こえない子どもを二人も生んだ私に音楽をする資格などないのだといじけて、音大を出たなどと恥ずかしくて周りに話したこともありませんでした。 ピアノも歌も自分で封印していました。 ところがそんな私に転機が訪れます。 長女の就学にあわせて私たちは今住んでいる岐阜県各務原市に引っ越すことになります。 学校の先生にも、友人にも助けられ子どもたちは成長していきました。 長女の通う小学校は障がいのある子どもの療育にとても熱心で先生がたは本当によくしてくださいました。 長女に続き長男も同じ小学校の難聴の子が通うクラスに通い始めます。 その小学校では3月に学習発表会を行います。 それぞれの学年で合奏、群読など父兄の前で披露するのです。 うちの子どもが通う基本学級、今でいう特別支援学級でも発表をします。 情緒、知的、難聴のクラスの子どもたちがハンドベルの演奏をしたのです。 長男はステージに上がると知的のクラスの子に立ち位置を教えたり、長女も満面の笑みでステージに立っています。 キラキラ星の演奏が始まりました。 ところが耳の聞こえない二人は曲に遅れてしまいずれてしまうのでした。 それでも、最期まで胸をはり演奏した二人をみて言葉で言い尽くせない感動を覚え、涙をこらえるのが大変でした。 聞こえない子どもを産んだと嘆き悲しみ、取るに足らないプライドでピアノを歌を遠ざけていたこと。 「本当に感動する音楽とはなにか?」大学で教えてもらえなかったことを耳の聞こえない子どもから教えられたのでした。 ピアノが弾きたい、歌いたいと心の底から熱い思いが沸き上がってきました。 40代~50代、コンサート開催 それからは小さなコンサートをさせていただくようになりました。 この子たちがこうして育ってこれたのもママ友、先生、家族、多くの方々のおかげだと気づかされたのでした。 「私にできることは何か?」と考えました。 そう、音楽以外に考えられませんでした。 リトミック研究センターの上級までの資格取得(2023.4) 岐阜県音楽療法士の資格取得(平成17.3) わらべ歌ベビーマッサー資格取得(2011.11) 障がいのあるお子さんも来てくださるようになり学びを重ねました。 子育てに関する講演会にも呼んでいただけるようになりました。 今ではライアーの生徒さんを含めると30人近い生徒さんに囲まれた幸せなピアノの先生になりました。 �理念 障がいのある子どもを社会的に自立させることができました。 長女は同じ聾の方と結婚婚し子どもにも恵まれました。 長男も大学を卒業後大企業に就職、一人暮らしを楽しんでいます。 次女は私と同じ名古屋音楽大学のピアノ専攻を卒業後学校の先生をしています。 私は年齢や障がいのあるなしに関係なく「音楽のある豊な人生」を提供させていただきたいと考えています。 ひとり一人に寄り添ったカウンセリングレッスンをしております。 お子様には音楽を通して生きる力を伸ばしていきます。 ライアーのコースでは演奏を通して新たな自分探しのお手伝いをさせていただきます。 障がいをお持ちのお子様には長期的に目標を設定し音楽を通して成長をさせていきます。 親子関係、療育の相談にも応じます。ページ https://murakamipiano927.jimdofree.com/ ブログ https://ameblo.jp/flugel-tensi/ 村上 知枝美プロフィール 幼少~小学時代 親戚の結婚式で「ちゅうりっぷ」を歌い歌手をめざしました。 親戚なので当たり前ですが褒められうれしく、人前で歌う快感を知りました。 音楽が好きなこどもでした。 小学生から中学 ピアノを1年から始めました。 初めはピアノが無くて、オルガンで練習していました。 河合のプレハブの教室が小学校の横にあり通いました。 先生のイメージはとにかく「オシャレ」でした。 メリーのキャンディーを持ってらして、「ピアノの先生はこんなキラキラのキャンディーをおやつに食べるんだ」と思ったことがとても印象的で記憶にあります。 ピアノの先生は私にとってあこがれの存在でした。 この頃は年上のいとこがバイエルも先に進むのが嫌で仕方ありませんでした。 鼓笛隊でトランペットをしていました。 ピアノはこの頃 ほとんどサボってました。 吹奏楽でサックスしてました。 とにかく、楽しかった3年でした。 3年の文化祭で、1000人くらいの全校生徒の前で「マイウェイ」を英語で歌いました。 なぜかフランクシナトラが好きでした。 友人が伴奏してくれました。 ピアノより、合唱のアレンジを担当させてもらったりしました。 とにかくこの頃ピアノは嫌いでした。 私は一人っ子でした。 いつもいとこと比べられ?自分で比べて、今思うと自信がなくひねくれていたのです。 いとこに同じ音大のヴァイオリンやってる子がいたり、東大、慶応レベルがいたり、ちょっと歌が歌えても、ピアノが出来ても「当たり前」「普通」の評価しかしてもらえなかったのが嫌でした。 高校 それでもやはり音大に行きたいと高校に入りピアノも復帰し、声楽、ソルフェージュを始めました。 高校では合唱の伴奏していました。 高校三年の時が生涯で一番ピアノの練習しました。 いじめや家庭問題はありませんでした。 国立大学落ちたので一浪しました。 名古屋音楽大学入学 大学に入ってからは周りがみんなお嬢様で、友達とは少し距離を置いていました。 それなりに旅行に行ったり楽しみました。 うちの父は普通のサラリーマン、みんな会社経営、銀行頭取、不動産、株持っているのが当たり前でした。 ヤマハのポプコン、写譜のアルバイトが楽しくてヤマハに入り浸り、クリスタルキングの田中さんと飲みました。 タレント事務所に入り、テレビ、モデル、歌のユニットで活動していたこともあります。 未だに選挙のウグイスはやってます。 単にちやほやしてほしかったのだと思います。 趣味はマラソン 今も続けています。 ピアノは試験に合格すれば良しという感覚でした。 移調奏なんて適当でしたね。 社会人   結婚するまでの二年半、マラソンとトライアスロンにはまり、音楽してません。 友人の結婚式で弾き語りしたり、頼まれるとピアノ弾くこともありました。 名古屋音楽大学卒業して、同系の同朋大学に就職しました。 浄土真宗の大学なのでお寺の友人多いです。 学部時代も音大なのでお経が楽譜でした。 40歳過ぎるまで自分がいかに恵まれて生きてきたか知らないほどいじめや死にたいほどの苦難にあったことはなかったですね。 周りもお嬢様、いとこもみんな秀才。 音楽ができること、音大に行けることのありがたみも感じませんでした。 アクセサリー感覚でたね。 ピアノが弾けて、歌えて、地味にタレントもできて・・当たりまえだと思っていました。 結婚  「ああ、結婚したいな」と思い相手はたくさんいましたが、今の旦那と結婚。 26歳でした。 私の音楽の仕事には協力的です。 結婚前後も苦労なかったです。 子育て~試練の始まり~ 27歳で長女を出産。 そして29歳で長男出産を目前に控えたある日、神様はそれまで、なんの苦労もせず生きてきた私に大きな「試練」を与えたのでした。 長女の耳が聞こえていないことが分かったのです。 1歳5か月まで発達などの異常もなく育っていましたし、私がピアノを弾くと隣で嬉しそうに、鍵盤を触っていました。 聞こえていないなどと疑いもしませんでした。 しかし、落ち込む暇もなく、訓練が始まり、補聴器を作り、障害者手帳を作りました。 障害者手帳には長女の写真が貼られているのですが、辛くてその無邪気に笑う写真を見ることができない私でした。 長女の検査の2か月後、千歳で長男を出産。 当時主人は自衛官で「政府専用機」に搭乗していました。 そのため、結婚後すぐから、北海道の千歳市に住んでいました。 雪の多い、北海道で乳飲み子を抱えて訓練に札幌に通うなどできません。 仕方なく、主人を単身千歳に残し、私は実家のある愛知県に戻ることになります。 そして愛知で聾学校と愛知保健センターに通うことになります。 そして、兄弟なので長男の耳の検査もすることになりました。 結果は長女と同じで耳が聞こえていませんでした。 実はそのころの記憶があまり無いのです。 もう、ただ2人も耳の聞こえない子を産んでしまった。 情けなくて、みじめで仕方ありませんでした。 毎日、毎日二人の子どもを道ずれに死ぬことばかり考えていました。 ある日、寝ている長男の首に手をかけようとすると、起きて泣き出してしまったのです。 私は泣き声で我に返りました。 しかし、そんな辛い夜でも朝は来ます。 そして朝になれば訓練に通わなくてはなりません。 忙しさが私を死なせまいと支えてくれていました。 二人目も障がい児と分かり主人も北海道から愛知に転属となりました。 私の両親の助けを得て、毎日必死で訓練と子育てをする日々でした。 療育 訓練に通いだした私は、不思議と聞こえるお子さんを羨ましく思うことだけは一切ありませんでした。 でも、同じ障がいを持つ子どもと、どうしても比べてしまうのでした。 お勉強のできる聾の子どもさんが羨ましくて仕方ありませんでした。 長女は聞こえないと分かったころからトイレトレーニングを始めました 言葉を覚える訓練をしてくれない長女には、虐待まがいのスパルタで、親子共々精神的に追い詰められていきました。 出来の良くない長女が不甲斐なくて、お勉強のできる子が羨ましくて仕方ありませんでした。 私まで出来の悪い母親のレッテルを貼られてしまった気になっていました。 こんなに私が一生懸命やってやってるのにどうしてできないのかと? きっと鬼のような顔つきだったでしょう。 次女出産 そんなころでした。 私は、次女を妊娠したのです。 まだ長女は2歳、長男は1歳にもなっていません。 主人は私に堕せと言ってきました。 もし、また聞こえない子どもが生まれたら? もっと重い障がいの子が生まれたらどうするのだと・・・ 私は一人っ子でしたので子どもはたくさんほしいと結婚前から考えていました。 「どんな子が生まれようと私は産む」泣きながら主人を説得したのでした。 産むと決意したものの毎日の訓練、生活で心が悲鳴を上げていました。 被害妄想、被害者意識の塊になった私は、お腹の大きな私を見てみんなが笑っているように思えました。 「また、聞こえない子ども産めばいいのに」「二人も障がい児いるのに3人目をよく産むわね」 と言われていると思い込んで、さらに私は鬼のような顔つきになっていきました。 将来二人が困らないように、できる限りのことをしてやりたい、あれもこれも教えなくては・・・ 子どもたちはそんな鬼のようなお母さんのいう事などきく訳がありません。 どんどん、大切なものを見失い一人空回りする私でした。 次女が無事に生まれほっとしたころでした。 ある本との再会 ふと、ある日本棚のある本を手に取りました。 私の卒業した名古屋音楽大学は同朋大学と同じ系列で浄土真宗の学校でした。 音大を卒業してから私は同じ敷地にある同朋大学の研究室に就職しました。 その同朋大学で知り合った友人にもらった本でした。 タイトルは「子どもたちよありがとう」 著者は浄土真宗のお寺に嫁ぎ、3人の子どもに恵まれますが、長男は問題児でいつもいつも檀家さんに謝りに行ったそうです。 そして妹が生まれるのですが重度の脳性まひで生まれてくるのです。 どれほど子育てが大変だったことでしょう。 しかもその著者である彼女はがんに侵され、42歳の若さで3人の子どもを残し亡くなってしますのです。 私は本を読みながら大声で泣いていました。 それまでに我慢しため込んでいた悲しみがあふれてきたのです。 ふと、思ったのです。 全然言葉の勉強をしてくれない長女につらく当たり、長女が出来ないのは私がダメな母親なんだと思い込み、子どもの気持ちを考えてあげる余裕など全くなかったことに気づかされたのです。 3人の子どもを残し亡くなった彼女はどれほどさみしく悲しかったことでしょう。 それを考えたとき彼女の声が聞こえたようなきがしたのです。 優しく微笑む彼女は私にこう言うのです。 「子どもの傍で生きているだけでいいじゃない、よその子と比べるのも、押し付けるのもやめて、ただ、あなたは笑っていればいいんじゃない?」目が覚めた私は自分の生き方を探し始めます。 各務原市に引っ越しピアノ教室(フリューゲル)を開く 思えば聞こえない子どもを二人も生んだ私に音楽をする資格などないのだといじけて、音大を出たなどと恥ずかしくて周りに話したこともありませんでした。 ピアノも歌も自分で封印していました。 ところがそんな私に転機が訪れます。 長女の就学にあわせて私たちは今住んでいる岐阜県各務原市に引っ越すことになります。 学校の先生にも、友人にも助けられ子どもたちは成長していきました。 長女の通う小学校は障がいのある子どもの療育にとても熱心で先生がたは本当によくしてくださいました。 長女に続き長男も同じ小学校の難聴の子が通うクラスに通い始めます。 その小学校では3月に学習発表会を行います。 それぞれの学年で合奏、群読など父兄の前で披露するのです。 うちの子どもが通う基本学級、今でいう特別支援学級でも発表をします。 情緒、知的、難聴のクラスの子どもたちがハンドベルの演奏をしたのです。 長男はステージに上がると知的のクラスの子に立ち位置を教えたり、長女も満面の笑みでステージに立っています。 キラキラ星の演奏が始まりました。 ところが耳の聞こえない二人は曲に遅れてしまいずれてしまうのでした。 それでも、最期まで胸をはり演奏した二人をみて言葉で言い尽くせない感動を覚え、涙をこらえるのが大変でした。 聞こえない子どもを産んだと嘆き悲しみ、取るに足らないプライドでピアノを歌を遠ざけていたこと。 「本当に感動する音楽とはなにか?」大学で教えてもらえなかったことを耳の聞こえない子どもから教えられたのでした。 ピアノが弾きたい、歌いたいと心の底から熱い思いが沸き上がってきました。 40代~50代、コンサート開催 それからは小さなコンサートをさせていただくようになりました。 この子たちがこうして育ってこれたのもママ友、先生、家族、多くの方々のおかげだと気づかされたのでした。 「私にできることは何か?」と考えました。 そう、音楽以外に考えられませんでした。 リトミック研究センターの上級までの資格取得(2023.4) 岐阜県音楽療法士の資格取得(平成17.3) わらべ歌ベビーマッサー資格取得(2011.11) 障がいのあるお子さんも来てくださるようになり学びを重ねました。 子育てに関する講演会にも呼んでいただけるようになりました。 今ではライアーの生徒さんを含めると30人近い生徒さんに囲まれた幸せなピアノの先生になりました。 �理念 障がいのある子どもを社会的に自立させることができました。 長女は同じ聾の方と結婚婚し子どもにも恵まれました。 長男も大学を卒業後大企業に就職、一人暮らしを楽しんでいます。 次女は私と同じ名古屋音楽大学のピアノ専攻を卒業後学校の先生をしています。 私は年齢や障がいのあるなしに関係なく「音楽のある豊な人生」を提供させていただきたいと考えています。 ひとり一人に寄り添ったカウンセリングレッスンをしております。 お子様には音楽を通して生きる力を伸ばしていきます。 ライアーのコースでは演奏を通して新たな自分探しのお手伝いをさせていただきます。 障がいをお持ちのお子様には長期的に目標を設定し音楽を通して成長をさせていきます。 親子関係、療育の相談にも応じます。
対象年齢
4ヶ月からシニア
資格
ピアノこころのほけんしつ, 育脳ピアノレッスンの教科書, 育脳シニアピアノレッスンの教科書

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